特集記事アーカイヴ Issue 2002.11-12

「鉄柵」のこと

text: 寺西幹仁 Mikihiro Teranishi

 「鉄柵」という文芸誌をご存知だろうか。これは、今から58年ほど前に、アメリカで発行された日本語雑誌である。この「鉄柵」について、書こうと思う。

1.「鉄柵」の歴史的背景

1941年12月7日、真珠湾攻撃を発端とする日米戦争が勃発した。その翌年3月から、アメリカ在住日系人の強制収容が開始された。強制収容の対象となったのは、日本人の血を16分の1以上持っている者すべてである。当時、日本からの移民(一世)はアメリカ市民権を得ることが出来なかったが、その子(二世)は、アメリカ市民権を持っていた。市民権の有無に関わらず、約11万人の日系人は強制収容された。そこは鉄条網に囲まれ、周囲の監視塔には武装した兵士が24時間見張りに立ち、急造された粗末な木造のバラックの中には、砂嵐や寒風が吹き込んだという。1942年8月、収容所への立ち退きは完了し、アメリカ西海岸のあちこちで繁栄していた日本人町は消えた。

1943年2月、収容所内の17歳以上を対象として、「出所許可申請書」の33項目に及ぶ調査が行われた。その設問の中に、「第27問:アメリカ軍に志願するか」、「第28問:合衆国に忠誠を誓って日本の天皇への忠誠を否定するか」というものがあった。この2問に対して、「イエス、イエス」と答えた者(イエス・イエス組)は、アメリカに忠誠心ありとみなし出所許可を与えた。一方、「ノー、ノー」と答えた者(ノー・ノー組)は、忠誠心なしとみなし、隔離収容所へと送られた。

1943年7月、カリフォルニアの北部、オレゴンとの州境の近くにあるトゥーリレイク収容所は、「ノー・ノー組」が多かったことから、隔離収容所のひとつに指定された。同年10月から、収容者の交換が始まり、トゥーリレイク収容所にも、約12,000名の「ノー・ノー組」が送り込まれ、同数の「イエス・イエス組」が去っていった。


2.「鉄柵」の創刊

トゥーリレイク収容所へ、「ノー・ノー組」としてグラナダ収容所から山城正雄、野沢正二という2人の青年が送り込まれてきた。 そして、ポストン収容所から河井一夫という青年が送り込まれた。この3人は、ロサンゼルス市立ポリテクニック・ハイスクールを卒業した友人同士で、共に文学を趣味としていた。1943年晩秋、毎晩のように加川良一の家へこの3人が集まるようになった。加川は14歳のとき、家族と共に渡米し、農業に従事する傍ら独学で英語と詩を学んだ。 1930年、英詩集"Hidden Flame"を出版し、ヨネ・ノグチの後継者として注目を浴びた。その加川の元で文学談議を重ねるうち、文芸誌を発行する話がまとまった。

収容所内での雑誌創刊というのは、並大抵のことではないが、原稿収集、紙の確保、印刷手段、そして、監理当局からの許可と、問題をひとつひとつ解決していった。原稿募集は、所内の日本語新聞「鶴嶺湖時報」で行った。監理当局の許可を得るため、刺激的表現は極力避けるよう自己規制をし、注意深く英訳した原稿を提出した。紙の入手には野沢が奔走した。印刷は、鉄筆で書いたものを謄写版で印刷した。

1944年3月、山城正雄、野沢正二、河井一夫の3人が編集責任者、加川良一が顧問となり文芸誌を創刊した。誌名は、「鉄柵」とした。発行部数は、800部。内容は、小説、評論、短歌、俳句、詩、随筆等であった。

創刊の目的を、加川は次のように書いている。
「その主なるものとして私たちは現在自由を奪われた収容所生活をしているとは云え、自分たちの文化――すなわち自分を決して失つているものでないということを実際に於て示すに適した試練をうけている点を挙げることが出来る。次には私たちが来たるべき戦後の新生活に踏みいるに際して整えていなくてはならぬ用意の具体的な証しを自分の力で燃やしつづけていなければならぬ点である。どちらも適当な発表機関を得てよき実を結ぶことができる。」

3.「鉄柵」の推移

「鉄柵」創刊号は、25セントで収容所内のキャンテーン(協同組合形式の売店)で販売され、飛ぶように売れた。「鉄柵」のうわさは広がり、他の収容所からも注文が来た。戦争勃発以来、日本からの雑誌輸入は途絶え、収容所内の人々は、日本語の読み物に飢えていたのだ。売上金は同人に分配せず、次号発刊の資金とした。

その後、1ヶ月から2ヶ月に1回、毎号平均1,000部を発行したが、1945年7月21日発行の第9号をもって終刊した。いや、実際には、第10号も準備していたようだが、その号は発行されることはなかった。
これは、同年8月15日の日本の敗戦により日米戦争が終わったためである。

4.「鉄柵」のその後

収容所内で発行された日本語雑誌は、「鉄柵」だけではない。ヒラリヴァー収容所の「若人」、トゥーリレイク収容所の「怒涛」、ハートマウンテン収容所の「ハートマウンテン文藝」、ポストン収容所の「ポストン文藝」といった日本語雑誌が、発行されている。これらもすべて、鉄筆で1字1字手書きされ、謄写版刷りされたものである。

ところで、これらの日本語雑誌は、すべて、収容所の公式記録には載っていない。また、現在では、アメリカ文学からも、日本文学からも外れたところにあり、ごく一部の研究者だけが、知るところとなっている。

実は、「イエス・イエス組」と「ノー・ノー組」の境遇の差は、戦後もさらに長く続いた。戦争中にアメリカに忠誠を誓った「イエス・イエス組」は、戦後のアメリカ日系社会において主流となり、「ノー・ノー組」の人々は、重い烙印を背負って生きねばならなかった。そして、「ノー・ノー組」の人々は、戦後沈黙し、自らの経験を語ることはなかった。もちろん、「鉄柵」のことも。

5.終わりに

私は、仕事上のある関わりから、偶然、「鉄柵」の存在を知った。そして、「鉄柵」の現物を見たいと思い、あちこちを探した。現物そのものは、未だ見ていないのだが、不二出版で「日系アメリカ文学雑誌集成」というものが発行され、その中に「鉄柵」の復刻版も含まれていることを知り、それを東京都立中央図書館で見つけた。私は、図書館に通い、「鉄柵」を読んだ。復刻版は、「鉄柵」の現物を写真製版したもののようで、すべて手書きであった。隔離収容所の中で、鉄筆で一文字一文字刻まれた文字が、そこにあった。その一文字一文字に込められた思いを考えると、胸が熱くなった。

詩を1篇紹介する。

 『たそがれ』―― M嬢に捧げて
                山城正雄
 
 黒いバラツクを前につき出して
 遠い空は真赤に燃えてゐる
 低くたれてゐる雨雲に
 入陽の映える美しさです
 
 ツルレーキの土の上に
 「日本人隔離所之跡」の石碑の建つよりも
 僕が此処に住んでゐたことが
 歴史のもつ悲しい内容になるのです
 淋しさも苦しさも忘れた孤独です
 ぼんやりとして見てゐるだけです
 
 ああ恋人よ! 過去のいつさいよ!
 真赤に燃えて暮れて行く空を
 二人で一緒に見たいと思つてゐた僕が
 無理であることも解って来ました
 僕ひとりのみの故郷が
 ああして遠くで燃えてゐるだけです
 せめて君が
 ブレードを千切つてばら撒いて
 鴎を沢山呼んでゐてくれたらと
 やつぱり君のことを思つてゐます
 
 どんよりとした雨雲の彼方に
 僕の見いだす淋しい憩ひがあるのです
 本当の意味の青春のなかつた僕を
 労わつてくれるやさしい母です
 根を下ろして見せる稲妻に
 心を奪はれるひとときです
 ぼんやりとして見てゐるだけです
 (「鉄柵」第4号1944年8月発行より)

山城正雄はこのとき28歳。M嬢とは、収容所に入る前につき合っていた恋人であろうか。「ノー・ノー組」を選択した男性のつき合っていた女性の父親が「イエス・イエス組」を選択し、そのためにやむなく別れざるを得なかった男女もいたそうである。山城もそういう中の一人だったのだろうか。
検閲を意識しているせいもあるのだろうか。この詩の2連目は、抑制した表現になっている。だが、それでも抑えきれない感情が切々と伝わってくる。この詩は、優れた歴史批判の詩であると同時に、また、優れた恋愛詩でもある。

最後に、「日系アメリカ文学雑誌集成」を編纂した篠田左多江氏、山本岩夫氏の解説文で多くの事を教わった。この文章はその解説文に負うところ大である。

 

寺西幹仁 Mikihiro Teranishi
1960年生。現在、詩学社という出版社で、「詩学」という詩の月刊誌を編集。「詩学」12月号では、「鉄柵」を含む戦前、戦中の日系日本語文学について、詩を中心に特集予定。
<詩学社サイト>http://www7.ocn.ne.jp/‾shigaku/


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